「行冊walkingbook」の所在地の歴史的意義:蒋渭水/大安医院/文化書局/大衆葬
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台湾宜蘭に生まれた蒋渭水(しょう・いすい)は、日本統治時代の医者であり、民族運動の社会運動家でもありました。また、台湾文化協会と台湾民衆党を創設し、反日本植民地運動の重要な指導者の1人として今でも親しまれています。

1916年(大正5年)、蒋渭水は、日本統治時代の大稻埕で茶商を営んでいた洪九江(発記茶行)より、当時月額60円で門構えが3つ連なった建物を借りあげ、大安医院を開院。当初、大稻埕得勝街64番地であった地名も、1922年(大正11年)の台北市町名改正に伴い、太平町3丁目28番地と新たに定められました。「行冊walking book」が写真や史料と照らし合わせた結果、大安医院を含む当時の建物は、今ではそれぞれ「義美食品」「行冊walking book」「廣隆進ビンロウ屋」に分かれてしまっていることに気づきました。

台湾がまだ日本統治下にあった1921年(大正10年)1017日、蒋渭水や林献堂といった台湾人指導者たちによって、現台北市静修女学校で台湾文化協会が設立されました。彼らは協会本部を蒋渭水が営む大安医院に置き、会報発行を皮切りに、『台湾民報』を創刊しています。その後、協会メンバーらは多くの読報社(台湾人のための図書館)を設置し、文化講演を頻繁に行い、書店を開きました。映画や新劇を通して音楽と芸術の重要性を提唱していくなかで、台湾の歴史上、最も近代的啓蒙に富んだ、新しい文化思潮の時代を迎えました。

当時の民衆から呼ばれていた「文化頭(文化リーダー)」に対し、自らを「文化の鐘を鳴らす旗手」「文化協会の機関士」に例えた蒋渭水は、台湾文化の啓蒙に貢献した「台湾新文化運動の父」と称されています。


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1916年(大正5年)、蒋渭水は得勝街に居を移し、大安医院(診療所)を開業。すなわち今の延平北路に位置する「行冊walkingbook」にあたります。当時の大安医院(門構えが3つ連なった建物)は、今の延平北路二段31号、33号、35号にあたり、今では「義美食品」「行冊walkingbook」「廣隆進ビンロウ屋」と、それぞれに分かれています。


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蒋渭水は、さらに太平町(現延平北路二段)にある大安医院の真横に「文化公司(文化会社)」を設立し、台湾人の言論の自由を許された唯一の機関誌『台湾民報』の総本拠地(現「行冊walking book」)としました。図のなかの人力車の上に乗っている紙束こそが、発行を控えた『台湾民報』です。

大安医院の歴史的意義:台湾新文化運動の聖地

台湾史の発展を見届けた大安医院の史実は下記の通りです。

1921~台湾文化協会の本部、台北支部、会報発行所を設立。台湾を患者に見立て、知識不良の病の治療を呼びかけ、文化の普及啓発に努める。

1922~台湾社会問題研究会本部を立ち上げる。

1922~新台湾連盟本部を創設。台湾の政治結社の先駆けとなる。

1922~『台湾』雑誌社の台湾支部を設立。

1923~台湾人唯一の言論機関誌『台湾民報』の台湾総本部、編集部を設立。台湾の各種社会運動を紹介するほか、農民、労働者、婦人の権利を訴え続けた。また、学生運動を始め、文化啓蒙運動、台湾議会設置懇願運動を支持するとともに、台湾自治を要求し、日本統治下の台湾総督府を批判した。この他にも、中国白話文を提唱したことで、新文芸運動の結実の一助となり、台湾新文学の重要な揺りかごとなっていた。また、新しい知識、新しい思想を紹介し続けた『台湾民報』の発行は、最盛期には1万部を突破している。日本人が創刊した『台湾日日新報』と肩を並べるほどの影響力を持っていた。

1923~台湾議会期成同盟会の台湾支部を設立。

機関紙『台湾青年』台湾総本部を設立。初期は若者を対象に民族自決の奮起を奨励していたが、後に地方自治と世界の植民地情勢を紹介していった。

1926~台湾人最初の書店として「文化書局」を設立。当時の新しい文化を紹介する機関として、思想書のほか、中国の出版物を扱う初の漢文書店でもあった。

1927~台湾民衆党台北支部を設立。

1927~台北労働青年会本部を設立。

蒋渭水が辞世したあと、大安医院を実業医院に改名し、記念施設として保存を試みましたが、失敗に終わったのでした。

臨床講義

本職である医者の視角から、難しい政治文化評論を趣に富んだ民族診断書に見立てた蒋渭水は、1921年(大正10年)、台湾文化協会会報の第一期に「臨床講義」を発表しました。台湾を病人に例え、世界における低能児だと診断した蒋は、五味のクスリを投与し、直ちに知識栄養不良症を治療するべしと講義文の中で述べています。

図書館がその中の“一味”にあたるため、「行冊walkingbook」3階のリーディングルームの運営趣旨と奇しくも同一となっております。

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蒋渭水は1926年大安医院の1階に文化書局を設立し、国内外の新しい文化思潮を紹介していました。

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蒋渭水の死後3日目にあたる1931年(昭和6年)8月8日、生前親交があった友人たちによって「故・蒋渭水氏の台湾大衆葬葬儀」の挙行が決議されました。

823日午前830分、台北永楽町通(現迪化街)の永楽座にて故・蒋渭水氏の「台湾大衆葬葬儀」が行われました。場内中央には蒋渭水氏の遺影が置かれ、両脇には「精神不死(精神は死なない)」「遺訓猶在(遺訓は生き続ける)」「大眾干城(祖国を守る庶民の英雄)」「解放鬥将(民族解放に努めた闘士)」と大きく書かれた文字と、

「大義受大名 生拠大安作営陣 死埋大直 大夢誰先覚  眾民歸眾望 功憑眾志以成城 力排眾難 眾醉君独醒(あなたは祖国民族のために、大義名分を自ら背負いにいった。大安にいながら、革命に身を投じた。死の直前まで、正義を貫いた。混沌とした夢のなか、先に覚醒するのは誰だ。あなたは大衆の希望そのものだった。大衆の支持を集め、偉業を成し遂げた。あなたは力の限り困難を乗り越えた。混沌とした夢のなか、あなただけが目を覚ましていた。)」といった死者を悼む対句が添えられていました。

「大衆」とは特に抑圧された階層の人たちのことを指し、運動を牽引し続けた蒋渭水が庶民と同じ立ち位置にあったということを意味しています。葬儀当日、台北の武装警察官一同が大稻埕に集結し、署長自ら指揮をとった厳戒警備体制のもと、訃報を聞きつけた5,000を超える人々が大衆葬に参列しました。

大衆葬によって集結した庶民の力は、総督府を驚かせ、異議分子によってつくられた初めてのドキュメンタリー映像もお蔵入りとなりました。印刷中であった「蒋全集」も没収と同時に焼き払われ、出版予定であった追悼文集の刊行も禁じられ、「死せる渭水、生ける総督を脅かす」と揶揄されるほどでした。

同年829日に発行された『台湾新民報』379号は、「台湾史における空前の葬儀」というタイトルで、23日に執り行われた故・蒋渭水氏の「台湾大衆葬」を紙面一面にわたって紹介。報道文は「今回の大衆葬儀は、終始、活動写真隊によって撮影された。その盛況ぶりは、台湾全島で上映される予定。」と締めくくられています。

「行冊walkingbook」デザインの由来:蒋渭水/大安医院/文化書局/大衆葬

蒋渭水氏への敬意を込めて、私たちは建築家の劉冠宏氏と共に設計図について議論を重ね、蒋渭水に関わる背景やエレメンツも改修デザインの中に取り入れました。

台北から宜蘭に向かう地形をもとに、等高線を用いて作られた階段形式の椅子たちは、等高線の高さに合わせた段差のあるオブジェのような造形となっています。カジュアルでリラックスした雰囲気のなか、公園のなかでピクニックをするかのように愉しんでもいいでしょう。または、美術館の内外で展示されているインスタレーション作品に触れるかのように、アーティスティックな気分に浸るのも構いません。縦横無尽に語り合いながら、自由自在に使っていただけます。入口から奥へと続く色深く凹んだ一本のラインは淡水河を表し、天井のライトは大衆葬が行われた8月の夜空をイメージしているほか、1階バーカウンターの真上に配した「へびつかい座」は、医学を研鑽し、庶民の為に医療活動に励んだ蒋渭水のスピリッツを象徴しています。全てにおいて、程よく散りばめられたその真髄から、きっと宿命的な出会いと幾重にも紡がれた縁を感じていただけるでしょう。

2階の天井は1階の等高線をそのままリフレクションしたデザインとなっており、同じコンセプトで繋がっています。また、3階のリーディングルームは、100通りにわたる自由気ままな読書スタイルが可能な実験的なスペースとなっています。木製のコンテナを折り曲げたような趣に富んだ面白い設計によって、立つ、座る、横たわる、寝そべる、隠れるなど様々な姿勢で読書ができる空間です。どんな気分も有機的に包んでくれる、そんな静かで味わい深い空間のなかで、100種類のあり方や読書スタイルでもって、自分も知らない100種類の私らしさに出会えるかもしれません。

100年前、蒋渭水はこの地で台湾人唯一の言論機関誌『台湾民報』を創刊しました。中国語の白話文を提唱し、台湾新文学の揺りかごでもあった『台湾民報』は、積極的に新しい知識、新しい思想を紹介し、新文芸運動を奨励。100年後、台湾文化の醸成に貢献した先人たちに呼応するかたちで、「行冊walking book」も台湾独立系出版物を支援するためのプラットフォームを立ち上げ、上の世代から受け継いだ想いや精神を、私たちの手でまた繋いでいきます。

「朽ち果ていく古いものに、新しい命を吹き込み、受け継いでいく。」——これこそ、私たちが関心を抱いていることであり、取り組みたいことであります。

古い建築物の中に新しいアーキテクチャの設計コンセプトを導入し、忘れ去られていく古いものたちに新しい居場所を与えていく。あらゆる物事が、新旧の間でぶつかり合い、融け合い、交差していくことは、セクターや時代を超えた素晴らしいコラボレーションであると信じています。「行冊walkingbook」とWooyoデザイングループは、数カ月にわたるディスカッションを繰り返すなか、既存の商業施設の概念を打ち破るための討議と努力を重ね、芸術的価値の高い空間をつくりあげてきました。これら全ては、頭のなかで描いたイメージを、一つひとつ丁寧に確認し、実現していった成果だといえます。

さまざまな面で支えとなってくれた方々への感謝の気持ちを忘れず、皆さまのお越しを心より歓迎いたします。

「行冊walkingbook」グループ

  • 行冊一樓百年外牆,應是日據時代遺留下來的大安醫院外牆

  • 蛻變中的樣貌

設計から施工まで、7カ月要した「行冊walkingbook

「行冊walkingbook2015 grand opening.

行冊2016老屋星生大獎銀獎

「行冊walkingbook」グループは、2016年度の古民家再生アワードで銀賞に輝きました。

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台北市大稻埕延平北路に位置する「行冊walking book」は、歴史ある大稻埕を世界に発信するため、築40年の4階建ての透天厝(台湾式の古い戸建て)をリノベーションし、活性化させた複合施設です。永楽市場、レトロな迪化街エリアに隣接し、故・蒋渭水氏が開設した大安医院の跡地に建つ本棟は、日本統治時代に『台湾民報』を発行した活動拠点としても知られています。

2年の準備期間を経て、2014年にグループを結成し、2015年に台湾の歴史と文化を育んできた大稻埕に拠点を移しました。4階建ての透天厝を改修した後、カフェ、レストラン、図書館からなる複合施設をオープンし、「行冊walkingbook」と命名。

40年の4階建ての透天厝は、「行冊walking book」グループの設計と改修のもと、複合施設として再生を遂げました。自分たちの知恵や資源を分かち合い、プロフェッショナルなグループメンバーとともに、多角的な経営方式で、より沢山の触角が開かれることを期待しています。大稻埕は、伝統的な乾物商店、漢方、布を扱っている問屋、台湾グルメの出店が軒を連ねているほか、次々とお洒落でスタイリッシュな新しいレストランやカフェが進出しています。歴史と文化によって形成されたこの古いエリアにフレッシュなアイディアが導入され、新旧が交差するなかで、世界と接続していけることを願っています。

201510月に正式オープンした「行冊walking book」。

私たちとともに成長したいという意欲、情熱をお持ちの新しいメンバーを歓迎しています。

グループメンバーに応募される方は、履歴書をWALKINGBOOK.TW@GMAIL.COMまでお送りください。

行冊廚師團隊